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ランボー(1982)を観た

 鑑賞動機  何かをきっかけにウォッチリストに入れていた。予備校の先生のリツイートだっただろうか。それに、最近私の観ている映画が長編だらけだったので、70分という短めの時間は手頃だった。鑑賞後には到底こんなことは考えられないが、「ベトナム戦争」と「帰還兵」というテーマが、WW1ほど各国の情勢や必要な知識が込み入ってはいなさそうだと思ってしまったのも動機の一つにあった。 感想  最初に単なるアクション映画だと思っていた自分を叩きたい。途中までは単なるカーチェイスかと思われたが、山に入ったあたりで形成逆転するのをきっかけに、どうやら一筋縄にはいかない話のようだ、と気づいた。そこまではランボーを応援して「警察から逃げ切れ」と思っていたのに、足を刺されたり草むらから飛びかかられたりする警官のスリリングなシーンからはランボーがとんでもなく怖く見えた。視点の切り替わりが強制されるのはカメラワークの影響が大きそうだと思った。ランボーの一人称視点にした途端に勇敢なチームの一人になったかのような気分になるが、二人称視点や三人称視点で見たランボーはとんでもない獣を前に恐れる臆病者のような気分になる。  あのラストシーンは、それまでの1時間以上にわたって知りたいと思っていたランボーの過去という美味しいものではあるが、あれ以上味付けするべきではない、というかあれが適温だと思った。これも「本当の戦争の話をしよう」の話になってしまうが、彼の言葉以上に彼の見た戦争を映すものは無いので、再現ビデオなりシーンを入れたら台無しになるだろうなと思った。そこで語られるシーンが、前半に挟まるフラッシュバックとは違い、他人が痛い目を見るのを自分が間近に観るシーンだからこそ、そうしたことを思うのかもしれない。 ランボーの口数の少なさゆえに、彼の話す一言一言が情報の宝庫なのだろうということは自明であったが、それにしてもラストの演技はさすがだと思った。  ヴェトコンの子供と途中の山入りの子供が重なって見えると弟が言っていてなるほどと思った。善なるものとして、戦争や争いには晒してはいけないと思って力を振り翳さなかったのに、実は彼らがその戦いの相手側だった、という構造が共通している。ヴェトコンの一件に関はそういう出来事の初体験だったのでラストであんなに苦しそうに話しているのだろう。だが、山での子供との遭遇で二度...

メリー・ポピンズを観た(1964)

  鑑賞動機  バイトの先輩がおすすめしていたので鑑賞。「くまのプーさん 完全保存版」を観ると泣くという話から、その先輩にとってのそういう作品を教えてもらった。「ハロー・ドーリー!」の5年前の作品らしいが、舞台の作り方や人の数などのリッチさが似ていたので納得がいった。「西部戦線異常なし」の後に観たので味が舌に残っていた可能性がある。 感想  ディズニーの作ったボボボーボ・ボーボボと言われても違和感がない。カレーとラーメンと唐揚げとオムレツとビーフシチューを混ぜたような感じがする。プーさん(完全保存版に限らずプーと大人になった僕も含む)と同じように、「大人の世界は子供の時にはあった宝物が見えなくなってる」という構造は一致していた。ただ、だいぶ子供の味付けがされているというか、笑わすシーンの熱量がとんでもなかった。笑って空中に浮くおっさんのシーンの撮影が、表情筋と精神の両面から大変そうだと思った。  初っ端の海軍総督の癖のついているお爺さんを見てしまったせいか一緒にハジけられなかった。「西部戦線異常なし」で、銃声を聞いてパニックになってる人を見てしまったので、このお爺さんも子供向けではおもしろ老人くらいにしか思われていないが、実際はそういう強迫観念のある人なのかなと勘繰ってしまったりした。「ハロー・ドーリー!」のドーリーと同じく周りを明るくする力のある女性主人公でかなり似たものを感じた。こちらは少し大人向けかと思ったが、ジョージの勤める銀行のシステムや解雇のくだりで急に対象年齢が10歳くらい上がったので、どちらも「よちよちの子でもわかりはするが、なんとなくでも話の深みを味わえるのは小学校高学年くらい」というような作品だろう。これはもしかしての話だが、「ハロー・ドーリー!」では主に掃除人や楽団に黒人がいたのに、この作品では全く触れられなかったのは、やはり公民権運動の影響が二つの作品の間にあったからなのだろうか?真相はわからないが、当時ならば下っ端煙突清掃員で出てきてもおかしさはないのに全く出ないというのは、人種の隔てのないとされる現代を生きる私にとっては若干不自然に思えた。  また、 本編自体が結構長く感じた。ミュージカル特有の冗長さはどうしようもないにせよ、説明が若干くどいように思えた。ペンギンダンスが長かったり回転木馬で移動するシーンが長かったり、視覚的に楽し...

西部戦線異常なし(1930)を観た

鑑賞動機  もう一年頑張れることが決まり、ずっと観たかった「西部戦線異常なし」を映画で鑑賞。赤点や平均以下が続いていた世界史の授業で一度この作品の名前を耳にしたことがある。その時は、この作品の魅力や話のあらすじを微塵も知らなかったのに、なんだかかっこいいと思って嬉しくなった。多分、予備校でこういう作品に触れることがあったので優越感を感じていたのだろう。(「博士の異常な愛情」の時くらいから、グロテスクだけどリアリティーのある戦争の話をいつかしっかりと聞きたいと思っていた。最終的には「本当の戦争の話をしよう」の時に生半可な覚悟じゃいけないんだと知ったものの。) 感想  この作品を観てて何度も出てきたのは、「ここのシーンはもっと勉強しておけば何百倍も面白いんだろうなあ」という思いだ。塹壕戦、敗戦まっしぐらのドイツ、戦争中の特殊な高揚感、とんでもない量の死者数、なんとなくの敵味方の図くらいしか頭になかったことが大変悔やまれる。「帰ってきたヒトラー」の容赦ない版のようだった。第二中隊がどんどん減っていく過程の合間に、戦闘のシーンや束の間の休息の会話のシーンがあったが、そこでの人の動きや会話中の皮肉っぽいところがわかったならば、もっと絶望感を感じながらその様子を見守れたのだなと思う。それ故に、中盤あたりから見えるポールの視点や思考を追いきれなかった自分が悔しい。子供相手に命の大切さを説いて理解されないシーンや、すれ違う家族とのシーン、戦争に行かない一般市民とのすれ違いのシーンは、「本当の戦争の話をしよう」でなんとなく聞いた話なので同じことを言っているなと思ったが、いかんせんそれよりも前の作品だから、きっと原点とも言えるべきオリジナリティがあるだろうにと思った。  そして初っ端でやられたベームから、「フランダースの負け犬」を思い出した。あの作品はこれを読んだからできたようなものだと作品紹介に載っていた気がする。あの劇は多少コメディ寄りにアレンジしてあるにしろ、100%はわかりえない中でも感じる面白さのようなものは、戦争に特有の高揚感と似ているような気がする。単純な敵味方構図を感じるからだろうか。鑑賞動機の「なんだかかっこいい」も、非日常のスリリングな戦争というものに引っ張られているように思えてくる。  世界史を勉強する、というよりも、次戦争が来た時のための参考としての知識を習得す...